今日は 生と死について書きますね
私にとって6月は命月間なんです
過去の私は 涙が全く出ませんでした
映画を見ても ドラマを見ても
感動する話を聴いても
ひどいことされても
涙が出ない・・・
何をしても無表情で
「私って何を感じているんだろう?」って
自分自身がわからないのが怖くって
自分を知るために
心をいろんなことして触れてきました
だけど いくら頑張っても
心も頭もカチコチで
知識や気づきは増えるけど
心が動かない・・・
そんな岩盤のような 私の心が砕けたのは
floweringセラピー ®︎の長期コースを受け始めて
半分くらいたった頃でした
きっかけは
幼馴染みの死を思い出した時
もう 何年たったかな
あれは6月のある朝でした
それは 本当に突然で
彼女もきっと
自分の人生が終わったことに
しばらく気づけなかったと思う
小さな女の子を残して
40年足らずの人生でした
まだまだ生きたかったはずなんです
私は もちろん
ものすごくショックだったけど
やっぱり涙も出ないし 言葉も出なくって・・・
こんな時も泣けない 心が乱れない
そんな自分が更にショックでしたね
そして 自己否定の塊だったから
「なんで自分じゃないんだろう」とも思っていました
「一生懸命生きてたら
報われるんじゃないの?」
「真面目に頑張ってたら
いいことあるんじゃないの?」
どうして ひたすら真面目に
前向きに生きていた彼女が突然死しちゃうの?
『生きる意味ってなんなんだ!』って
怒りを通り越して
人生の理不尽さに
生きる気力がなくなっていったんですよね
だけど そんな自分にも 何か違和感があって
心に触れたり学んで数年
ようやく 今ここという在り方に出逢えて
無条件の安心や穏やかさが
少しずつ自分の中に沁み込んでいった時
私の錆び付いた感情の蓋を外してくれたのは
幼馴染みの彼女の死でした
彼女を思い出したら
突然 今まで全く出なかった涙が
ドバーッと溢れたんですよね
自分でも
「誰が泣いているんだろう?」と
思うくらいびっくりした
「どうして死んでしまったの?」
そう問いかけながら
いっぱい泣きつくして 涙が空っぽになったら
今度は内側からメラメラと
生きる力が湧いてきたんです
『そうだあ
生きることに意味はないんだ』って
サーっと目の前の靄が晴れていきました
生きとし生けるものは全て
生きようとするもの
それが自然です
そこに意味はない
お花が何も言われなくても
太陽に向かってって咲くように
人は夢や希望に照らされて生きていく
そこに意味はいらないんです
それが命の在り方
生と死を
真逆たと思うから苦しくなるんですよね
解剖学者の養老 孟司先生も仰っていました
「生と死は対局になるのではなく
死は生の一部です」と
それが自然の摂理
誰も命を生きることを止められない
お腹が空いたら ご飯が食べたくなるように
1日が終われば 自然と眠くなるように
好きな人をみたら ドキドキするように
この世に生を受けたなら
命は生きようとするもの
そして その先に死は必ず訪れます
それで一つなんです

志半ばで倒れた彼女のことも
最初はどうして
「自分じゃないんだろ」って悩み苦しんだけど
それさえ おこがましく
人間が選べることじゃなかったんですよね
彼女を憐むなら
私が自分の人生を全うしなければ
それが命ある今を生きる意味
生かされた人の使命
自分が自分の命を生きる
それ以上の意味はないと思う
今している鼓動も呼吸も
あなたが生まれてから今日まで
一度だって休むことなく動いてる
それは誰が動かしているんだろう?
<自分>だと思うものの域を
はるかに超えていると思わない?
命はいつも今
あなたを通して生きたがってる
終わりがあるから
一瞬一瞬が愛おしくなれるんじゃないかな
何かになりたいと思う限り
<ない>の世界を生きることになるよ
命の時間は限られているのに
もったいない
でも 今は確かにここに<ある>
今あるものを育てましょう
意味を探すより ただひたすらに
お花のように
あなたが今ある
自分の命を生きられますように
愛と勇気を込めて☆彡
祥子
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